美食のはなし

先生への「自己紹介」のため、谷崎の短編「美食倶楽部」をネタに書いたものです。
ここがエッチだ!あそこもエッチだ!やったー!ってことをだらだら6000弱書いてます。
少し書き直したけど内容自体は変えてないので先生にアドバイスもらったところはとくに生かしてないです、あしからず。


谷崎潤一郎の美食を好むことは彼が女色を好むのにも譲らなかったであろう。その性癖が語られるとなるとまず一口目にマゾヒスト、女性拝跪、変態などと挙げられる彼だが、性的方面だけでなく美食に対する興味も大きいことは東西あらゆる料理に関するエッセイや小説内に出てくる料理屋・献立の多彩さからも窺える。彼が小学生のころ頻繁に遊びに行った同級生の実家は東京で高級の・唯一の中華料理屋であったため、谷崎の美食への、そして中華料理への目覚めは早かった。そこで「よく御馳走になった」(「支那の料理」)彼は十歳前にしてすでに一流中華の味に馴染んでおり、一番初めにうまいと感じた料理もまた中華料理となったのだ。エッセイ「支那の料理」には薄味で淡白な「日本料理の味が解るやうになつたのは後のことで、西洋料理に比べても支那料理の方が遥に美味いと思つて居た。」とも書いており、幼少期の谷崎潤一郎日本食よりも漢文よりも性よりも先にその愉しみを知ったのが中華料理だったことがわかる。
その食の記憶は以後も強い印象を残しており、彼が大正七年十月の中国旅行の折には「本場の支那料理を喰ふと云ふ事が主な楽しみの一つ」としていたし、二ヶ月にわたる旅行から帰国したのち、彼はすぐさま朝日新聞で料理そのもの、とくに彼の愛好した中華料理へ焦点を当てた短編「美食倶楽部」の連載を開始した。日本料理でも西洋料理でもなく中華料理を題材としたのは、初めて海外旅行した地である中国で出会った、彼の幼少期から惹かれていた中華料理の美味さとそれの持つ独特の魅力――たとえば中華料理の食材の多彩さや、谷崎をして作法や衛生ではなく「食ふことに徹底してゐる」(「洋食の話」)と言わしめる「食」そのものへの拘り――に、彼の愛好するあるものとの共鳴を感じたからではないだろうか。「支那の料理」はこの作品と同時期に書かれており、読み比べてみると作者たる谷崎がみずからの体験や嗜好を「美食倶楽部」の至る箇所と重ね合わせていることがわかる。
「美食倶楽部」を構成する会員は、趣味は美食とギャンブルと女、それ以外に日がな一日することもないという富裕な5人の男たちだ。彼らは食事を一つの、そして最高の芸術形態と考え、東京中の美食をすでに食い尽くし美味いもののためなら東奔西走、感覚が既に麻痺しながらもなおその欲望に従って美味いものを追い求める。東京で食するものでは日本料理はもちろん、西洋料理も、「世界中で最も発達した、最も変化に富むと言われている濃厚な支那料理」さえも食い飽きてしまった彼らはしかしさらなる美食を求め、彼らを満足させるに足る料理を提供した会員へ賞金を出すことにする。その期待の対象でありこの小説で核をなす人物となるのは、彼らのなかでも中心的存在の、「財力と無駄な時間を一番余計に持っている突飛な想像力と機知とに富んだ、一番年の若い、そうしてまた一番胃の腑の強い貴公子」であるG伯爵だ。賞金の話が出て以来連日美食への予覚を感じさせる夢を見た彼は、ある夜散歩中にすれ違った男から嗅ぎ取った紹興酒のにおいと、道に響く胡弓の音とを頼りに、中国浙江省の人びとが招かれる奇妙な饗宴を探しだす。
伯爵は西洋館でおこなわれていた私的な宴会へ足を踏み入れることは許されたものの、主催者の許可が下りず、目の前の料理を賞味することはできないまま退室を余儀なくされてしまう。それでも案内役の学生へ食い下がり自分の情熱と執念を訴えた彼は、宴会の実態を聞かされて隣の阿片の臭い漂う小部屋へ連れられ、さきほどまで目にしていた豚の股児の丸煮が投げ込まれたスープや純白のスープに浸かった燕菜などではない、その会合で出される「ほんとうの料理」、つまり「上は人間から下は昆虫に至るまで」を材料にし、「木の皮を食い鳥の糞を食い人間の涎を食う」という、麻薬めいた魅力をもつ食事の光景を覗き見るに至るのだ。
だが、G伯爵が隣室から見た饗宴の様子は読者へ明らかにされない。「その会の会長が参会者の人選を厳密にするのと同じ意味で、読者の人選を厳密にすることが出来ない限り、その模様を赤裸々に発表することが出来ない」と、饗宴の主催者である「会長」がG伯爵を丁重に、かつ気乗りがしないように断ったのと同じやりかたで「作者」は読者への公開を拒否するのだ。伯爵がそこで出される料理へ辿りつくまでの過程で嗅覚や視覚や聴覚をじゅうぶんに研ぎ澄ませ、あとは喰うだけと存分に高めていた食欲を会長ひとりの裁量ですっぱりと遮断されてしまったように、読者もいよいよ明らかにされるだろうと思われていた種明かしを作者によってあっさりと拒否されてしまうのである。
しかし読者は伯爵が宴会を隣室から覗くのを許されたように、伯爵の拵えた料理名やその内容のいくつかを読むことを許される。彼がその宴会からインスピレーションを受けて編み出した料理を知ることで、読者は彼が見た「ほんものの料理」についても想像が可能となろう。たとえば「火腿白菜」と呼ばれる料理は実在するハムと白菜のスープ料理だが、G伯爵によってそれはいかにも奇怪にアレンジされる。すなわち、すべての料理が食されたあとで暗闇のなかで30分ほど立たされ精神の研ぎ澄まされた会員はふいに現れた軽い足音、香水の匂い、前髪の感触を――それまでにいなかったはずの女の存在を発見する。会員は意図のわからないまま女の手にみずからを委ねるが、その手によって行われるのはまず顔の、次いで唇へのマッサージであり、それからやっと口腔へ這入ってきた女の手を味わってみるとこれがなぜか白菜とハムの味がする。目を開けてみると女の姿は跡形もない――という仕掛けなのだが、ここで重要視されているのは「味」よりもむしろ「未知の味わい方」であり、その方法は食事というより――むしろ明らかに――性行為と重ねられる。暗闇で会員の唇が唾液まみれになるまでじっとりと執拗に嬲られる様子はまさに男性が女性の性器へ行う前戯そのものとみられ、ペニスの代替物である女の手が口腔内に侵入すると、会員は女の「指の股」から生じ出てくる液体を必死に舐めすすり、そこにハムと白菜の匂い、食感、味を発見するのである。
「これまでにかつて経験したことのないような、甘味のある、たっぷりとした水気を含んだ、まるでふろふきの大根のように柔軟な白菜なのである」という描写を読めば、なるほどG伯爵の編み出した料理は味わったことのない美味であることがわかるが、会員の噛みしだいているのは女の指であって、「喰意地がムラムラと起」り、「備えているあらゆる官能を用い」る彼らの食欲はその食事方法のエロティックな描写と共鳴する。ふたつの欲望は食物が咀嚼されるかのように混ざりあい、食事をするものもまた噫という射精の疑似行為によって食事への満足を示すのだ。そしてのちに彼が独自に編み出した「高麗女肉」という料理についての内容を読むと、会員たちの求めるものがもはや料理そのものの味ではないことがわかるだろう。
その料理では、天麩羅の衣を纏った美姫が運ばれ、食事するものはひたすらその衣のみを食べる。これはまず決して「美味い」料理ではない。会員たちはおそらく女の衣を剥がすことに衣服を解し脱がすことを重ね合わせたり、箸に触れる女の肌を感じたりして愉しんでいるのだ。つまり会員たちが美食の到達点として求めたものは見た目の造形や味ではなく、五感のさらに先を「想像させる」料理なのである。五感のすべてが研ぎ澄まされているときよりもさらに鋭敏な状態で賞味される「料理」はたしかに、絵画よりも音楽よりも一途な――それゆえ狂気に踏み入りそうな――芸術性を帯びているのかもしれない。
またこの作品中では排泄物や腐敗したものこそ描かれないものの、「汚い」状態、不浄な感じに対しての偏執が到る所に散見される。G伯爵の考え出した「鶏粥魚翅」は火腿白菜と同様に実在する料理だが、一口食べただけだと淡白でなんの感動もないのにその後に続々と出てくる“げっぷ”からまぎれもない魚翅と鶏粥との味がする――しかもそれは出れば出るほど口腔に感じるうまみが増す――という料理である。胃がもたれるほど食えば必ずげぶげぶと吐かれて口腔に不快をもたらし食事の満足を妨げる噫こそが美味のアクセントになるのだ。
この汚物嗜好は重要である。他にもたとえば、G伯爵を初めとした美食にとらわれたものみな一様の肥満はその理由となっている美食への想像を膨らませるし、夢に出てくる美食を嚥下したあとの噫はなんども逆流する「流動物」でほとんど吐瀉物のような描写をなされる。あるいはG伯爵は道で聴いた胡弓の音楽から食事の味や匂いをつぎつぎと連想し、演奏後の拍手から「喰い荒らされたソップの碗だの、魚の骨だの、散り蓮華だの杯だの、油で汚れたテーブルクロースだのまで」を脳内に描き出す。この食事後の汚さを描くことで食べる前の料理の美しさが際立ち、それを自由に食い散らかすという支配欲への満足や汚すことじたいの快感は一層強まるのである。
それに加えて、食を芸術と捉えその感覚を研ぎ澄ませてきた彼らではあるが、そもそもこの作品は美食が主題であるにもかかわらず、会員の美食に対する一途な欲は「卑しい食物」に対する「意地穢なの慾望」と書かれていることに注目したい。見た目やその匂いがどれだけ上等なものであっても、食への欲望は穢れたものであることはこの作品の前提として設定されているのである。だからこそ美食といえどもそれにまつわるイメージは汚く、もうひとつの穢れた欲望である性と結びつき調和するのだ。
先述したように、この小説では研ぎ澄まされた五感と欠如を補う想像が理想のうまみをもたらす。G伯爵が中華料理の気配を感じたきっかけはすれ違った男からし紹興酒のにおいであり、彼を饗宴場へいざなったものはそこから聞こえてきた胡弓の旋律であった。これは読者へ対しても適用できることで、G伯爵の編み出した料理において、たとえば会員の味わった「火腿白菜」でかれらは視覚以外すべての感覚を使って料理を存分に味わうのに対し、読者は逆に視覚のみからその料理を想定しなくてはならない。いくら描写されてもその味や仕掛け、会員の心持ちを「読者は宜しく想像してみなければならな」く、かれらを追体験ができないため読者はほとんどその特殊な料理の詳細には共感こそできないが、G伯爵が覗き見した料理を推測して美食を作りあげたように、いくつか挙げられる中国風の料理名や料理例の手掛かりからそれらを想像することでその滋味を掬することはかなうのだ。
こういったいくつかの例を見ていくうちに、なるほど会員たちが一気にG伯爵の考え出した「美食」へ溺れていくのが読み取れる。彼らの惹かれたこれらの奇怪な料理が引き起こしているのは、本来食べられるものである料理が食べさせるものへ、食事するものが味わわされるものへの逆転だ。「食う」という、なかば当然のように食べる者が食物を支配するはずの行為は、ここにおいて料理が食べる者を支配するものへ、食うものは「食わせられる」ものへと変貌しているのである。しかし美食に取り憑かれた会員たちはその逆転に気づかないまま、出会ったことのない美食だといって料理によろこんで屈伏する。だから彼らはしだいに料理を「味わう」ことも「食う」こともできなくなり、ただ料理にとらわれ破滅へと向かってゆくのである。だがこれはG伯爵が「肉体が蕩け、魂が天へ昇り得るような料理――それを聞くと人間が踊り狂い舞い狂って、狂い死に死んでしまう音楽にも似た、――喰えば喰うほどたまらない美味が滾々と舌にもつれ着いてついには胃袋が破裂してしまうまで喰わずにはいられないような料理」を、みずからをまさに破滅へと導いてくれるような料理を狂おしく望んだ結果なのであり、果たして彼の欲望は叶えられたのだ。
G伯爵の見た夢のお告げのなかで彼がさまざまなにおいを感じ、巨人の大きな口が食物を取り込んで何度も咀嚼と噫を繰り返しながらやがて現と混ざるような、あらゆるものの境界が混ざりあいその輪郭を滲ませるイメージは幾度となく反復される。たとえば饗宴場から聞こえてくる胡弓の旋律は「食物の匂いのように」G伯爵の食欲をそそらせるし、饗宴場へ案内される伯爵は煙たい通路を通るうちに「自分の体がまず支那料理にされてしまったかと」思い、かと思えば彼は料理を食うだけのものから作り出すものへ変質している。理想の料理の方法を知る陳会長は「どこまでが器物でどこまでが食物であるかわからな」くなるほど多彩な材料を多彩な調理法で食べれば、「火腿白菜」を食べた会員が白菜と指との境界が判らず、料理を「指と白菜の合の子のような物質」と感じたりもする。あるいはまた、感覚の混交は執拗なほど出てくる擬音からも感じられよう。すなわち、「とろとろ」「ぴちゃぴちゃ」と重ねられる擬音を耳から肌から感じ、それが視覚で捉えうるものとして書かれていることで、それを実際に感じているものにとっても読者にとっても感触と食感の区別がしだいに付かなくなる。これらの擬音は「夢の中」という、自分の感覚がすべて頭のなかで繰り広げられるところでとくに多く用いられる。
これらまざりあうものたちは、彼らが料理を「食う」だけでなく「感じる」こと、さらにはそれと「同化する」ことを欲していることを示す。男女がからだを重ねる行為で高揚するように、またさまざまな材料のエキスが溶け込んだスープが美味であるように、まざりあうものは快感を生む。それを本能的に知っている彼らは『痴人の愛』のナオミや『瘋癲老人日記』の颯子のように確固として存在する、G伯爵の料理という妖婦の無言の誘惑に打たれ、それと一体となることを欲するのである。だからこそ長時間煮込まれて材料の溶けだした、吸われるとともに唾液と親和しするりと飲みこまれるスープ料理が何度も登場したのであり、伯爵は饗宴場の料理のなかでも燕の巣そのものではなくそれが漬かっている純白の色をしたスープに目が行くのだ。
こうして調理者が、食うものが、食われるものがしだいに不明瞭となるなかでたしかな対象として存在するのは料理だけであり、だからこそそれに関わる者たちはみなすべて料理にとらわれ隷属してしまうのである。谷崎にとって美食は女色と同質な魅力であって、ふたつの強い欲望を突き詰めたところにあるのは崇高なものではなくともに下賤な穢れたものであった。そして汚物へ一途に純真に意識や感覚を高めていくことによる破滅――これが女と美食を大いに好むものが辿りついた、怪奇で貪欲な欲望のさいはてなのだ。


擬音のとことまざりあう快感のとこにマルがついてました。
「一文が長すぎて途中飽きた」って言われたけれどもうくせになってしまった